名城大学農学部にて1992~1996年まで在籍しました。
4年間勉学と共に励んだアルバイトが飲食店ということもあり、その後の進路では皆とは全く違くコックの道に進むきっかけが大学生活にありました。
イタリアに渡って2年が過ぎようとしていた時、このレストランでシェフをしないかという話が出て、日本人ながらもイタリアでシェフをすることになりました。
同僚のイタリア人からはどう見えたのかはわかりませんが、オーナーは優しく、いつも私 日本人を助けてくれる店でした。
http://www.ristoranteaccademia.it/it/
スペインを最後に日本に帰国するつもりが、いざ帰国となると、まだいろいろ学びたい気持ちが溢れ、デザートを勉強したいと急遽思い立って、スペイン バルセロナからイタリア ミラノに再度上陸。
ミラノにある老舗の1つ星レストランにて
デザート パンの勉強をする。
その後も日本にすぐに帰ることもなく ポーランド モロッコなどヨーロッパ以外でも食の旅を楽しんだ後帰国することになった。
イタリアに渡ってやっと働くことができた1つ星のレストランです。
トスカーナのモンタルチーノという田舎にある小さな町。
ここでは夏、観光シーズンから正月前、ハイシーズンの期間、働かせていただきました。
今でもこの店のタフさは忘れることがありません。
こころの中でスペインに行きたいという気持ちが強くなり、行く為にはまずお金が必要だということで働き始めたのがこの店SESAME 料理の内容はイタリアでは珍しくフレンチ&モロッコ料理を出す店で、モロッコ料理が様々なスパイスを使うことから
スパイスの使い方を覚えたのがこの店でした。
スペインに行く前の最後のイタリアでの仕事でした。
日本に帰国して最初に選んだ都市、「東京」
国外にいる時に、どれだけ東京について聞かれた事か。それまで日本人ながら東京には修学旅行でしか行ったことがなく、 「食」の点で見ると世界でも3つの指に入ってもいいと言われているほどグルメな都市。
その東京で働いたのがスペインに本店を持つ3つ星レストランの東京初出店「サンパウ」。
スペインのモダン料理の店。
コックだけでも10人以上、店全体では30人近くの大きなレストランにて、東京のレベルの高さを知ったレストラン。
イタリア語という壁もそろそろなくなって、自分から働くこと、賃金の交渉などができるようになり、働くことができた北イタリア、ピエモンテ地方にある1つ星のレストラン。
北イタリアならではの繊細で家庭的な料理を学びました。
家族経営のレストラン イタリアでこそ巡り合うことができたレストランの1つと言えます。
http://www.walterferretto.com/
スペインに渡り、1ヵ月語学学校に通って、スペイン語もままならない時にレストランの扉をたたいたのがこの店でした。
スペインバルセロナにある1つ星の店。
イタリア料理 スペイン料理とさほど変わらない物だろうと思っていた自分の既成概念が微塵にも壊された。
スペイン料理の先端を行くレストランで働くスタッフの動きも今までで1番早く、的確な優れたコックの集団がそこにいました。
帰国して「サンパウ」というグランメゾンの後、丸の内に新しくできるTOKIAビル内にある、スペイン料理のカジュアル版、スペインバルの料理長に就くことになった。
スペインバルと言えども長さ約50メートルもあるカウンター、収容人数約120名という大きな箱のバル。
この頃から東京にバルという文化が根付き始め、毎日が満員で忙しく。
カウンター越しでの調理、接客などもあって
東京の飲食の形を肌で感じることができた店。
東京で培った接客、もてなし方などを抱えて、地元名古屋ミッドランドスクエア オープンと同時に料理長に就く。
地元という地の利を理解はしていたが
オープン当時の混雑、まだまだ成長過程なスタッフと共に店を切り盛する状況。
テレビ取材、雑誌主材など多くの媒体が取り上げる中、営業成績はよくなるも 体調を崩して、長期入院となってします。
その後、車いすシェフとしてカムバックを果たす。